ユーザーイリュージョン 意識という幻想
トール ノーレットランダーシュ著 紀伊国屋書店
このページには上記の本の中から拾い集めた、フェルデンクライスの勉強に重要な示唆と私が思うものを記載しました。興味のある方はぜひお読みください。
この本にわたしが強く引かれたのは情報の伝達と、意味の伝達に関する部分と、この情報理論をもとに解明される意識の(特に時間関係)部分に興味も持ったからです。いろいろな疑問に少しヒントを与えてくれたと感じた本です。以下はその内容から引き出しました。
意識と無意識はフェルデンクライス メソッドでの中心的課題の一つです。特に動きをしているのは、はたして「誰か」?
ここに記載した短文は、はたしてどれだけフェルデンクライスの学習に寄与できるのだろうか? どう利用したら動きを改善できるのだろうか?
とてもとてもすばらしい本です。ここ数年間で読んだ最高の一冊。
第一部 計算
P45.計測、つまり情報の取得には、まったくコストがかからない。得た情報を捨てるのにコストがかかる。知識ではなく、知恵にコストがかかる。
P51.情報それ自体はとても退屈なものであり、面白いのはそれを処分すること、それと処分する手段だ。
P52. 計算とは、私たちが興味のない情報を処分する手段だ。
P61.シャノン「情報化社会」とは実は「エントロピー社会」であり、無知と無秩序の社会だ。
P63 .シャノンが導き出したのはコミュニケーションの理論、情報伝達の理論であり、情報の持つ意味の伝達の理論ではないことを強調している。ある量の情報が深遠な洞察を含んでいることもあれば 、たわごとの塊であることもある。情報量は言いえたことすべての尺度であり、実際に言ったことの尺度ではない。
P64.「情報量」はたいへん主観的な概念であり、あるメッセージに対して人がどれだけ意外性を覚えたかを表している。
情報は誰が誰に向かってどういう状況で語っているかを定義したときに初めて定義できる。
P66 .エントロピーは私たちが知りたいと思わない情報の量の尺度だ。
情報は無秩序の中に見つかる。
P87 .秩序ある数とはより簡潔に表せる数だ。
私たちはある数字がよりランダムなものかどうか、つまり、もっと簡潔に表現しうるかどうかを判定する方法を示してくれる一般原則を明示することはできない。ある数がもっと簡潔に表現しうるかどうかは、結果がわかって初めてわかる。それまでは判断のしようがない。
P88 .秩序があるかどうかは、秩序が見えたときに断定できる。しかし秩序が見えないからといって秩序が無いとは言えない。
P89
.情報量はランダム性の尺度となる。情報量は意外性の尺度だ。秩序より無秩序の方が多くの意外性を持っている。これこそが秩序の意味だ。秩序だっているがゆえに私たちを驚かすことができないもの、それが秩序だ。
情報の受け取り手がどんな秩序を発見したかを知るまでは、その情報を定義することはできない。
野口注:すると単に手を他人に触れても(とても無秩序に思えるが)触れられた人がどんな秩序を発見するかは分からないのだろうか?
P100 .物理学者ハインツ パージェル「完全な無秩序はつまらない〜〜〜〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜同様に完璧な秩序にもたいしたおもしろ味はない。完全な秩序でも完全な無秩序でもない可能性があるはずだ。〜〜中略〜〜それが複雑性だ。」
P101 .情報量というのは興味深い概念だが、複雑さを測定するうえでは、とりたてて優れた尺度ではない。
P102 .科学が複雑性に目を向けだしたのは、コンピュータの出現による。
P108
.メッセージの意味、その価値を測る尺度が「論理深度」という概念だ。送り手がメッセージを仕上げるのに苦労すればするほど、論理深度は深くなる。
意味を決めるのはメッセージの情報量ではなく、特定の情報量を持つメッセージを生成する過程で、どれだけの情報を捨てたかだ。重要なのはどれだけを語るかではない。語る前の思考なのだ。
P109.あるメッセージや生成物の背後には、膨大な量の作業や思考が存在する可能性がある。ただし目には見えないかもしれない。物事を簡単そうに見せるのは難しい。わかりやすさの影には深さが必要だ。
第二部 コミュニケーション
P124 .(意思が伝わる)決め手となったのは伝達されたビット数ではない。情報を送ったときのコンテクストだ。
通信文という観点にたてば捨てられているが、明白に処分された情報を伝える。この明白な形で処分された情報を<外情報>(exformation)とよぼう。
P125 .情報を送るときにには、送り手の頭の中にある<外情報>に関連した何らかの内面的な情報が、受け手の心にも無ければならない。伝えられた情報は受け手に何かを連想させなければならない。
P127.聞き手が本当に望んでいるのは、話し手の頭の中で何がおきているかをのぞき見ることなのに、相手が情報を提供しても<外情報>を提供してくれなければそれがかなわないのだ。良質な会話で一番面白くないのは実際に語られたことだ。興味深いのは会話の最中に話者の頭や体の中で同時に起こる、ありとあらゆる思索や感情の動きだ。
言葉はそこにはない何かを示唆する手がかりにすぎない。
P129 .情報はさほど興味深いものではない。メッセージを受けたときに注目すべきなのは、それが生み出されるまでに起きたことと、受け止められてから起きることであって、情報そのものではない。情報は意味とは無縁のもの、無秩序と同類。
P132
.情報と意味の関係はお金と豊かさの関係に似ている。本当の価値、本当の豊かさとは持っているお金ではなく、使ったお金、かつてもっていたお金の問題であり、お金を払って得た利用価値のことだ。情報も同様で、人は手にして初めてそれ自体には価値が無いことに気づく。
情報の概念についてこれまで混乱が多かったのは「情報」という言葉が秩序や意味と同義語として使われたきたためだ。
P133 .(サイバネティックスの生みの親)ノーバート ウィーバーはコミュニケーション理論には三つのレベルがあるという。技術のレベル、意味のレベル、行動のレベルだ。
P136
.現代の情報社会が本当に優れているのは、情報をあちこちに動かせるという点だけだ。私たちが互い何を伝えたいのだろうという、肝心な問題には答えてくれない。
不可逆的な作業は、情報伝達の途中ではなく、その前後に行われる。
情報伝達で大切なのは、(実際に)何を言うかではなくて何を言いたいかだ。だからこそ黙っていると伝わる事柄がたくさんある。
P146
.私の要約:話者は発話の前に情報を圧縮(集約)し、聞き手はその要約を聞き、ときほどかれて(展開)より大きな情報となる。
音楽において肝心なのは音波ではない。作曲家、演奏家がさまざまな心の状態をひとつのパターンに置き換えて、それが聞き手の心の中に同じ(あるいは異なる)状態を呼び起こすという現象だ。〜〜〜中略〜〜〜目を向けなければならないのは、音符が伝える情報よりむしろ、その音符にいたるまでの
<外情報>であり、そしてまたその音符が聴き手の心に呼び起こす<外情報>だ。
P177 .<主観的時間量>とは私たちが経験できる最小の時間枠で人間の知覚における時間の分解能を示す。聴覚、視覚も、毎秒16回まで個別のパルスとして捕らえられる。
P184. 私たちは経験していることのほとんどを、互いに言葉で伝え合えない。人は(毎秒)何百万ビットも経験しているが口に出して言えるのは(毎秒)二、三十ビットにすぎない。
P198.閾下知覚は閾より低い刺激を感知することを言う(映画のサブリミナル効果はその応用例)。閾下知覚に関して面白いのは、人が意識の上で気づくかどうかで閾が決まる点だ。閾下で自覚される刺激はどれも感知されるが、弱すぎて意識上では知覚されないものだ。
P199.人は自分ではまったく気づかない外部刺激に影響されているかもしれない。
P207.ダニエル デネット「他人が心にアクセスできるばかりか、心的活動の中には心の『持ち主』本人より他人のほうがアクセスしやすいものさえあるのだ。」
P210 .O.ペーツルが発見したのは、人は覚醒時に受けた閾下刺激(本人に自覚の無い刺激)を夢の中で思い起こせることだ。<ペーツル現象>。
P211.意識に識別できない二つの感覚の差異を、生体機能が区別できることを実証した。
P214.短すぎて知覚しえない刺激からも、人は何かを学ぶことができるのだ。
P216.キルストローム「意識は特定の知覚、認知機能、すなわち刺激に対する識別反応、知覚、記憶、あるいは判断や問題解決にともなう高次の心的プロセスといったものと同一視すべきでない。これらの機能はすべて意識の外で起こりうる。意識はむしろこういった機能のいずれにも付随しうる経験的性質だ。」
P217
.もし意識が入力情報からランダムに情報を選んでいるとしたら、大量に集めた情報など実際大して役に立たない。そこでおきる情報の仕分けには何がしかの知恵が働いていなくてはならない。
意識は膨大な量の情報処分に基づいている。意識の精巧さは、情報の所持ではなく、意識以前の情報処分にある。
P218 .意識が精巧なのは何が重要なのか知っているからだ。しかしそれを知るための情報の仕分けや解釈は意識されない。閾下での知覚と情報の仕分けこそ、意識を支える陰の立役者なのだ。
ジュリアン ジェインズ「意識が心的営みに占める割合は、我々が意識しているよりはるかに小さい。というのも、我々は意識していないものを意識することができないからだ。それは暗い部屋でまったく光の当たっていないものを探してほしいと、懐中電灯に頼むようなものだ。懐中電灯はどの方向であろうと自分が向く方向には光があるので、どこにでも光があると結論付ける。これと同じように意識は心のどこまでも行き渡っているように思えてしまう。実際はそうではないのに。」
P221.意識を構成するのは選択、拒絶、すなわち情報の処分だ。
P233 .私たちは感知したものをそのまま目にするのではない。感知したと思うものを見る。意識にあがるのは解釈であって生のデータではない。意識されるはるか以前に、無意識のプロセスによって情報が処分され、その結果私たちは一つのシュミレーション、一つの仮説、一つの解釈を目にする。しかも私たちに選択の自由は無い。 <ネッカーキューブ>(変面に描かれた立方体の向きが左右に入れ替わる図)の場合私たちは二通りの見方の一方を選択できるが、選択肢それ自体は選べない。そもそも二つの可能性が存在するという事実も変えられない。
P234.私たちの経験する事柄は、意識される前に意味を獲得している (野口注:意味を決定しないでは何を意識に上げるかを決定できないからだろうか?意味の決定とは本人の解釈だろう。この解釈は後で変更可能だろうか?)。
P235 .光は朝、昼、夕で同じではない。それでも消防車は一日中同じ赤に見える。だが人の目が消防車から受け取る光は同じではない。この現象を<色の恒常性>と言う。色覚の基盤となる情報は変化しているのに私たちには同じに見える。これは実に都合がよい。一日を通じて、消防車の色が刻々と変わったら、不便でならない。
P243 .(私たち)に見えているものはあくまで計算とシュミレーションの結果だ。目に映るものが対象物の真の姿に似ている保証など微塵もない。だが何が見えているかという点に関しては見ているもの全員が一致するではないか、という反論が聞かれるかもしれない。同じ木、同じバス、同じ赤い消防車を見ているではないか、と。会話を通じて意見がまとまる次元においてはたしかにそうだ。。しかし、私たちの会話は、ごく狭い帯域幅で進行する。その帯域幅は毎秒数ビット、つまり意識の容量しかない。この程度では赤を経験するという行為の属性をすべて伝えることはできない。ただ対象を指し、それが確かに消防車や木のこずえやバスだと話を合わせるのが関の山だ。
P259 .意識の持つ複雑度は非常に大きい。意識は相当な深さを持つ現象だ。生み出される過程で情報が処分される。意識の特徴は、非常に大きな複雑度を持ちながら、情報内容が少ない点にある。
「意識を生み出すにも時間がかかる。 経験する前に感覚情報をあらかた処分するには時間がかかる」。
意識にはどれくらいの時間がかかるのか。意識に時間がかかるなら意識は常にいくらか遅れていることになる。〜〜〜中略〜〜〜しかしそれは私たちの経験が虚偽であることを意味する。なにしろ私たちは意識にあがる経験が実際より遅れていることを感じないのだから。意識は0.5秒遅れる。
第三部 意識
P264 .脳はある動作をどのように実行するかを計算することで準備する(脳の準備電位として観測される)。動作の約1秒前。
P265 .指を動かすと言う単純な行為が、筋肉が活動する1秒も前から脳内で始まっているとしたら、私たちがその行為の開始を意識するのはいつなのだろうか?
P266 .何かがひどくおかしい、単純な動作を決意してから実行するまでに1秒は絶対にかからない。
すると行為を決意するのは実行の0.1秒前程度のほんの少し前のはずだ。すると時系列としては、
準備電位が発生
決意(=意識化。準備電位の発生 から約0.5秒後。ここまで準備電位が持続しないと無意識のままに終了)
実行されることになる(準備電位の発生から約1秒後)
すると指を動かそうと決意する前に準備に入っていることになるが、それならば人間に自由意志はあるのだろうか?
P270 .私たちは意識に欺かれている。何をするかは私たちが決められる、と意識は言う。しかし、どう考えても、意識は水面にたったさざなみ程度の存在に過ぎない。実際には意のままにできない物事を掌握しているふりをして、いい気になっているだけだ。意識は決定を下すのは自分で、自分が私たちの行動を引き起こしている、と主張する。しかし、実際に決定がなされる時、 (意識は)その場にいもしない。意識は遅れてやってくるのにそのことを黙っている。意識は自らを欺いている。だが意識の持ち主たる私たちを欺かずに自分自身を欺くことなど可能だろうか?意識の自己欺瞞は、私たち自身の自己欺瞞にほかならないのではないのか。
P272.熱いものに触れたときの反応は意識的なものではない。私たちはまず(野口注:無意識に、反射によって)指を引っ込め、それから「あちー」と思うのであって、「あちー」と思ってから(意識して)指を引っ込めるのではない。
P273.意識しない脳プロセスの結果として意識が生まれるなら、意識がすべてを取り仕切っているはずが無い。
P278.無意識的な反応よりも(わざと、意識的に)反応を遅らせよとすると大幅に遅れてしまう。だからこそすばやく行う必要のあることは無意識のうちに行われる。意識は(無意識)よりすこしだけゆっくり行うことはできない。ずっと遅くしかできない(野口注:だからATMではゆっくりとした動作を行う のか。高速から低速までのなめらかな実行速度変更は可能だろうか?)。なぜなら意識とは、急ぐ必要の無い場合にだけ用いられるものだからだ。
P288.自覚は皮膚を刺激してから0.5秒後に生じるのに、主観的な時間の繰上げが起こり、自覚はまだ始まっていないが脳が無意識のうちに皮膚刺激に反応した瞬間に(時間的には)意識の上で経験される。
P293.目に盲点があっても気づかない(野口注:自然にしていて片目の盲点に気づく人はいるのだろうか?)のと同様に、私たちは外界を感知する仕組みに欠陥があっても、それには気づかないのだ。意識は遅れ、それを隠すために手を尽くす。自分自身から隠すために。意識は欺く。意識は自己欺瞞だ。だがそれは実に都合がよい。ともかく時間(に余裕)があるときには。
P295.意識が生じるには0.5秒かかるというベンジャミン リベットの主張が裏付けられた。同時に、意識と無意識の違いが、0.5秒持続するプロセスを伴うかどうかの違いであることも確認された。
感覚像は大幅に修正されているため、意識が生じる0.5秒前から、体のほかの部分がその感覚の影響を受けているのを意識は知らない。意識は閾下知覚もそれに対する反応も、すべて隠す。
同様に自らの行為について抱くイメージも歪められている。意識は行為を始めているのが自分であるかのような顔をするが実際は違う。現実には意識が生じる前にすでに物事は始まっている。
P296 .重要なのは不要な情報をすべて処分したときに意識が生じるということだ。
P297.(自由意志について)意識は行為を起こすことはできないが、 「実行をしてはいけない」という決断はできるのだ。
P305 .意識的禁止が必要な唯一の理由は、意識的な意図と無意識の衝動の求めるものが違う点にある。
人間には意識以外のものがあることを意識が認めざる得なくなるのは、意識と無意識の間に葛藤がある場合に限られる。そのため逆説的ながらかえって(ほぼ)<禁圧>された衝動ばかりが目に付くことになる。
私たちがいちばん心やすらかでいられるのは意識が自由意志を行使しないとき、ということでもある。人は意識を介さずに無意識の衝動に従うときがもっとも幸福だ。ただ行動するだけのときがいちばん満ち足りている。
しかしこう考えると気分のいいときに主導権を握っているのは意識ではない、という事実を突きつけられることになる。すると人間は不快なときにしか自由意志を持たないのだろうか?
それとも気分のいいときにも自由意志はあるのだろうか? そうだとしたらそれは誰の自由意志だろうか?
P312.刺激が極めて短ければ意識にはまったく上らないが、それでも人はその刺激に反応する。
無意識のうちに刺激に反応することは、行動を決意するほうが時間がかかることを示している。理由を意識せずに反応することは可能だ。複雑な行動パターンを頭に組み込み、理由が分からなくても即座に実行に移せるようにすることが可能なのだ。
P316.<私>は意識ある自分であり、<自分>はその人全体である。
人には自由意志があるが、それを持っているのは<私>ではなく<自分>である。
P322.今にも事故が起こりそうで、すぐに何かをしなくてはならないとき、人は自分自身の傍観者となる。選択するものとしての自分を内側から眺める代わりに、難題に反応して行動する者としての自分を外側から眺める。自分を選択する者として内側から眺めるのは決断を下す時間がたっぷりあって、0.5秒以内に実行する必要の無いときだ。緊急の場合自由意志を経験している暇は無い。
<私>のほうから<自分>に求めて、<私>を一時停止してもらう状況はよくある。そんな他人を見る娯楽もある。
P329.<私の>停止方法について:
「取り組むべき課題を過剰に与えて頭をショートさせると、注意を向けることが多くなりすぎて、もはや心配などしている暇は無くなる。」
「ばかげた考えに身をゆだねる」例えば自分はコントラバスを弾いている魚だと思う。自己を過大視することがなくなる。
呪文や聖句を唱えているために、言葉のチャンネルがいっぱいになり、わずかしかない言語の帯域幅が、慣れ親しんだ言葉で占められてしまうので、思考の入り込む余地がなくなる。
P332.<私>は行為の真の動機を制御できると言っているが、実はそうではないと言う事実を<私>が受け入れること。
P344.無意識から生じた行動に対して意識ある人間はどう反応するのか?
指をまげるといったごく平凡で些細な行動も、無意識の作用(野口注:意識ができるのはそれを禁止することだけ)であるのは明白そのものだ。意識は自分がそういう行動を起こしていると思っているが、
実はそうではない。
P344.「このようないいわけは、意識ある自己が、自らの許可や助けなしに意図的な行動が行われたという事実に直面した結果である。意識ある自己はそうやって自らが受け入れられる話を作り上げようとする」
自己とその世界にまつわるl話を作り上げるのは意識の重要な機能である。
P349.皮膚を刺激されるといった外部からの刺激は、二通りの方法で脳に伝えられる。一つは、特殊神経系による迅速な報告で、意識的自覚は引き起こさないが、刺激がいつ現れたか、意識的自覚に時間情報を刻印する。もう一つは、非特殊神経系によるゆっくりした報告で、それが0.5秒の活動につながり、されにそれが意識的自覚を引き起こす。
人は皮膚への刺激を、コンテクストの中で解釈する。まず皮膚刺激として体験し、それから解釈するのではない。何かを意識的に体験するとき、私たちはすでにそれを解釈している。
エクササイズ3
P351.意識的自覚が起こる前に、膨大な量の感覚情報が捨てられている。そしてその情報が<私>たちに示されることはない。だが経験そのものは、この捨てられた情報に基づいている。私たちは感覚を経験するが、その感覚が解釈され、処理されたものだということは経験しない。
P353.事は、感知、シュミレーション、経験の順に起こるのだが、シュミレーションについては知っても意味がないので、その段階は経験から外される。そして私たちは編集された感覚を未編集のものとして体験する。
P357.意識が私が抱<私>自身のユーザーイリュージョンであるならば意識は<私>と言うこのユーザこそが、まさしく私>なのだと主張せざる得ない。
P362.とんでもない可能性を試すには、そのシュミレーションが実際に使われないことが前提条件となる。だから夢催眠の間わざわざ運動が阻止される。 (野口注:ATMレッスンでのイマジネーションによる動きはこの原理に基づくのか?)
P365.形式型学習。直感型学習。対話型学習。
対話型学習「手で触れる」手法は、人は意識でのみ学習するのではないことを教えてくれる。
P366.対話型の手法は純粋な形式方学習よりずっと広い帯域幅を伴う。しかし教師はいない。学習者は自分で情報を入手し、処分しなくてはならない。
P367.「人は例えばある顔に注意を向けるとき、同時に、その顔の細部からは注意をそらせている。〜〜〜中略〜〜〜知識があるときつねに何かしらに注意を向けているわけだが、もしそうなら、必然的に(その他の)何かから注意をそらしていることにもなる。」
P370.学習における<私>の役割は、無意識の<自分>に練習させること、稽古させること、あるいは、とにかく関心を向けさせることに尽きる。<私>は<自分>の秘書なのだ。<私>主導の学習期間はあまり成果が上がらない。習得する最中に習得しようとしていることを意識してもちっとも楽にはならない。
P371.しかし意識と<私>はコンテクストを理解し、自分がやりたいと思わないようなこと、例えば練習などに、目的を見出せるから役に立つ。
<私>が真の力を発揮されるのは<私>が<自分>に対して謙虚さを示すときだけだ。なんといっても<自分>の方が帯域幅がはるかに大きいのだから、ずっと多くのことが出来る。意識は自分の限界を知ったとき、最高の存在となる。
P376.日常生活は、科学の世界よりずっと複雑だ。なぜなら、科学が講じているのは、手に負えないものはすべて無視する策に他ならないからだ。
科学とは私たちが紛れのない形で口に出すもの。
P377.科学の問題、あるいはさかのぼりの問題(???)は、言葉の帯域幅が感覚の帯域幅よりずっと小さいという事実だ。世界について知っている事柄のほとんどを私たちは互いに言葉で表すことは出来ない。
P378.私たちが大切な事柄について語ることができるのは、話すのではなく行動するときだけだ。人は互いに物事を見せ合うことが出来る。
<私>は「私は自転車に乗れる」というかもしれない。だが、<私>には乗れない。乗れるのは<自分>だ。
老子「知る者は言わず。言う者は知らず。」
P382.人は<私>という意識を持たなくても機能できる。事実、たいていの人間は<私>という意識なしで過ごしている。ただ、そのことに気づていないだけだ。なぜなら、無意識に行動している間はそれを意識しないからだ。もし意識できるのなら、それは無意識ではないことになる。私たちは意識していないことを意識できない。
第四部 平静
P471.
<私>は何を感知しているか 、仮説を立てる。
次に感覚データで<私>を満たす周囲の状況のシミュレーションを行う。そして
<私>はこのシュミレーションを経験する。
(野口注:この文から動きの改善を考えよう。これから行うとする動きの仮説をどれだけ目標とする動きに近づけるどうかが、学習のキーとなるのが見えてくる。それには?
動きの可能性を増やす。シュミレーション プログラムを改善するのだ)
P474.長さは現実の世界には存在しない。誰がその現実を経験するのか決まるまでは。
P477.動きと音は「錯覚」だ。同一の主観的時間量内に生じたために私たちには分離できない感覚データを統合してしまうときに起こる。従って、動きの概念と連続した音の概念は、長さの概念と同じく、一定のきめの粗さや一定の尺度、あるいは経験を量子化する観察者の存在を暗示する。
P481.意識と無意識の違いは、意識にはごく少ない情報しかないということにある。そのために、意識は直線しか理解できず、膨大な情報を含む曲線は持て余してしまうのだ。従って文明がともすると直線に傾きがちなのは、意識が無意識に力を及ぼすからに他ならない。
<私>は線形であり、<自分>は非線形だ。
P487.
本来人間には毎秒数百万ビットもの生の情報を有意義に処理する能力があるのに、今ではコンピュータ画面を見ながら毎秒数ビットを処理するだけだ。作業工程から、物を扱う実感が抜け落ち、意識は一秒あたりほんの数ビットの情報で我慢しなければならない。
情報社会がストレスに満ちているように見えるのは情報が多すぎるからではなく、少なすぎるからだ。
P503.意識ある<私>は自分の周りにある世界を説明できないことを悟らなければならない。
P505.「私は嘘つきだ」は嘘つきのパラドックスではない。意識についての真実だ。
P506.意識は、それ自身にとって危険な存在になってしまった。自身がただの意識であり、本当の世界のありようではないと意識していないからだ。
P507.意識が生み出した問題に対する答えは、意識的に訓練して得た知識の変化だ。私たちは自分が知らぬ事柄を知ることを学ばねばならぬ。自分がすべてに気づいてはいない事実に気づくことを学ばねばならない。意識は限られたものだと意識することを学ばねばならない。
P509.意識は崇高なるもの従僕にすぎないのであり、私たちが慣れや自信や親密さの感覚を獲得し、あえて自分をさらけ出せるようになるための手段だ。意識はそれ自体が目的ではなく、今ここに私たちがあるための手段なのだ。意識をかなぐり捨てて、今ここに私たちがあるための。
P510.ソクラテスは、無学な人の知恵を認め続けた。幾何学などまったく知らない奴隷農民に次から次へと問いを発することで、彼らから直角三角形に関するピタゴラスの定理を引き出して見せた。実は私たちはすべてを知っているが、それをいつも言葉で表せるとは限らない。
私たちは世界から知識を引き出すことはできるが、知識から世界を引き出すことはできない。
P511.私たちはすべての支配権を手中にしているわけではなく、いつも意識を働かせているわけでもないことを、あえて喜ぶべきだ。さらに、無意識の生き生きした様を楽しみ、それを意識の持つ規律や信頼性と一体化させるべきだ。人生は意識していないときの方がずっと楽しい。
天国はほんの0.5秒離れているに過ぎない。ただし反対方向に。
以上。
1〜4までをいったん読んでから実際にやってみよう。
目を閉じる
首を回す
目を一瞬明けてすぐ閉じる
目を閉じたままで今見た情景を思い出してみよう
一瞬目を開けたときに(意識で)とらえた絵以外にも、目をつぶったままでそのほかのものを思い出すことができる。その絵はもう「目にして」いないのにそこに<意識>を向けることができる。言い換えれば、まばたき一回の間に即座に気づくよりもはるかに 多くのものを見ていることになる。意識はゆっくりと動く。意識は見たものすべてを、一度に(意識して)知覚できない。
今読んでいるこの段落に指を置いて、このページの先頭の段落を一、二秒間見る。注意してじっと見る。それからこの段落に戻る。さあやってみよう。
このエクササイズの間あなたは何を考えていただろうか?。思考を再現してみよう。ゆっくりとでいい。その間にいろいろなことを考えていたはずだ。「著者の狙いは何だろう」「なぜ落ち着いて読ませてくれないのか」等々、沢山のことを考えていたはずだ。なにを考えていたかは問題ではない。重要なのは何かを考えるより、何を考えていたかを自分に説明するほうがずっと時間がかかることだ。
この二つのエクササイズでわかるのは意識の活動は人間の(全体的な)心的営みよりもはるかにテンポが遅いことだ。頭の中では自分で気づいている以上のことが起きているのがわかる。止まって考えない限りそれには気づかない。
人間は即座に経験するもの以外に、その気になれば(意識を向ければ)経験できるものがずっと沢山ある。
意識には単一性という性質がある。人間は一度に一つの対象を意識するか、一つの感覚様相(聴覚、視覚、味覚、触覚、嗅覚)を意識するかの一つしかない。(意識してもしなくても感覚器官には意識できるよりもはるかに多くの情報が入力されてはいるが)
多少雑音の出るテレビをヘッドフォンで聞いてみよう。出来ればビデオの方が雑音が出やすい。明らかにしゃべり声はテレビから聞こえてくるが、雑音はヘッドフォンから聞こえてくる。聞くと いう体験は耳に入ってきたものを無意識のうちに解釈し信号と雑音、つまり地図と地に分類している。